日本の地方分権を考える(6) 平成の大合併
明治の大合併や戦後の昭和の大合併は、それぞれ小学校、中学校の運営に必要な規模という、国において明確な行政規模の設計の上での合併推進だったのが特徴的です。これらに対して、高度成長期の合併と平成の大合併については、そのような目標設定がないまま、財政規模の増大、財政破綻の回避に、住民の競争心や危機感をあおる形で行われ、「理念なき市町村合併」という批判があります。
次ぎのような大きな流れを経ています。
・1965年(昭和40年)に十年の時限立法として制定された合併特例法は、1975年(昭和50年)以降も十年毎に延長を繰り返して来たが、1970年代後半からは合併の動きが低調になりました。そのような中、1980年代末頃から、商工会議所などの経済団体や青年会議所を中心として、市町村合併を推進する提言が各地で行われ、これを報道機関が、明治の大合併、昭和の大合併に続く「第三次合併ブーム」と報じた。
これを受けた形で、1995年(平成7年)に改定された合併特例法では、住民の直接請求により法定合併協議会の設置を発議できる制度や、合併特例債制度の設置などが盛り込まれた他に、政令指定都市への移行や、町村の市への移行のための人口要件の緩和なども、数度の改定で盛り込まれ、合併論議が加速されることになりました。
・1999年(平成11年)4月頃から2006年(平成18年)4月頃にかけて起こった合併ブーム。
三位一体改革
小泉内閣になって「三位一体改革」が行われることになりました。
これは、
・国から地方への補助金削減
・国から地方への税源移譲
・地方交付税の見直し
の三つを一度に行おうというものでした。
具体的には税源については国税の取り分として入ってきていたものを地方税に切り替え、地方税を充実させて補助金を減らすことで自治体の歳入に占める地方税の割合を引き上げ、その分だけ地方交付税を引き下げることで交付団体を減らそうとしました。このように財源不足を解消して地方財政のプライマリーバランスをとる、つまり公債費を除いた歳入と歳出の収支を黒字にし、国から地方への財政移転を減らそうと考えました。
また、補助金等の削減によって小さな自治体において行政サービスが立ち行かなくなることを回避するため、行財政基盤の強化のために、2005年3月をめどに国は「市町村合併」を強力に推進しました。つまり、大きな自治体が大きな権限を持って効率的に自治体経営を行うことが望まれたわけで、実際3200市町村は1800にまで減りました。
しかし、補助金改革では、補助金の対象となっている事業項目も削減してその権限を自治体に委譲するはずでしたが、現在のところ少なからず項目において補助率の削減にとどまっています。このため、補助率を削減しても、自治体が何かの事業を行う際には所管省庁に申請し、そこで審査を受けるという手続きはそのまま残ることになります。
削減例を見ると、国民健康保険は50%から43%に、児童手当は3分の2から3分の1に、児童扶養手当は4分の3から3分の1に、施設介護給付費は25%から20%に削減されたという状況です。こうして補助率は引き下げられ、財源移譲は進んだものの、権限委譲があまりにも進まなかったことから、自治体の負担は増える一方で、国による関与が続くことになったという批判もあります。
「三位一体改革」による地方分権を進めようとしていますが、地方への財源と権限の保障が曖昧であるため、地方公共団体からは「『地方主権』『自治型社会の実現』からは程遠い」と指摘する声も少なくありません。
平成の大合併
影響が大きかったのは、政府(旧自治省、現総務省)による合併特例債を中心とした行財政面での支援及び三位一体改革の元に行われた地方交付税の削減である。
合併特例債は、法定合併協議会で策定する「合併市町村建設計画」に定めた事業や基金の積立に要する経費について、合併年度後10年度に限り、その財源として借り入れることができる地方債のことで、対象事業費の95%に充当でき、元利償還金の70%を後年度に普通交付税によって措置されるという、破格の有利な条件だった。合併特例債等の特例が2005年(平成17年)3月31日までに合併手続きを完了した場合に限ると定められたことから、駆け込み合併が相次ぎました。
また、合併直前に施設整備や職員採用を行う市町村や、合併特例債による町おこしとして注目を浴びた兵庫県篠山市がその後急激に財政状況を悪化させるなどの事例が発生し、新聞紙上には「合併バブル」という言葉も現れました。
合併特例債がアメと言われたのに対して、ムチと言われたのが、地方交付税の削減です。従来、地方交付税は小規模町村には優遇政策が取られていましたが、三位一体改革の名の下、大幅な削減がなされるようになり、地方交付税への依存度が高い小規模町村を直撃しました。
ただし小規模町村であっても、原発等の電力事業等の交付金等により、地方交付税への依存度が低い町村の合併は進みませんでした。平成の大合併での市区町村数の変化は、東京都が63から61に、神奈川県が37から33市にしか減らず、都市部における合併が進まなかったのに対して、新潟県が112から31、富山県が35から15になる等、地方と呼ばれる地域の合併促進の要因となりました。
市町村合併の動きは2003年(平成15年)から2005年(平成17年)にかけてピークを迎え、平成の大合併の第一弾が終了し、1999年(平成11年)3月末に3,232あった市町村の数は、2006年(平成18年)4月には1,820にまで減少しました。
その後、2005年(平成17年)4月に施行された合併新法(市町村の合併の特例等に関する法律)に基づき、引き続き市町村の合併が進められている。合併新法においては、合併特例債などの財政支援措置がなくなったため、合併の動きは鈍いが、県に合併推進勧告の勧告権があることから、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末に向けて、合併の動きが進むことが予想されます。
平成の市町合併の目的
政府などが掲げる目的は、概ね以下の通りです。
・地方分権に対応して、基礎自治体の財政力を強化できる。
・車社会の進展に伴う、生活圏の広域化に対応できる。
・政令指定都市や中核市・特例市になれば、権限が移譲される。
しかし、政府主導による平成の市町村合併ブームには、以下のような批判も少なくありません。
住民発議で合併に誘導する制度はあっても、合併の是非を問う住民投票が法制化されていない。このため、一応は議会の議決はあるものの、住民に歓迎されない合併も行われている(例:大崎市)。
合併に関する特例法は存在するが、分割や分立に関する特例法が存在しない。
合併後にも、旧市町村の議員が、そのまま新市町村の議員として任期を延長できる「在任期間の特例」に関する問題がある。財政難を理由にして合併をしても、合併後には議員の任期と給与を上げる事例が目立つ。
合併後の市町村の名称が、歴史的な地名を軽視した「方角とひらがな」ばかりになっている。(→#合併後の名称問題)
「規模を適正にする」という観点を軽視した合併が行われている。このため、県の面積に匹敵する巨大な市が、次々と作られている。
財政問題の解決を口実にした合併が目立つため、原発が立地することで国からの支援が降りる小規模自治体、空港などの固定資産税、あるいは大企業・大工場・莫大な収入を持つ個人からの地方税によって裕福な小規模自治体などは、合併による周囲の財政難自治体の債務の肩代わりを嫌って、合併しない例が多かった。そのため、将来の財政難を理由に合併した市町村が、「貧民連合」と侮蔑的に呼ばれた。
各市町村の思惑が絡み合い、いびつな飛地が多数発生した(例:津軽半島周辺)。
初めに合併ありきで合併したため、生活圏が異なる自治体同士が合併したケースがある(例:大崎市、相模原市など)。
財政の健全化が目的なのに、合併特例債(前述)によるバラマキにより却って財政悪化に繋がりかねない。
これらの問題点が挙げられていることから、福島県東白川郡矢祭町や群馬県多野郡上野村などのように、合併を拒絶して、自立・自律や独自性を謳う市町村も現れている。これらの中には、山間部などに位置していて、合併によって一層の過疎化が懸念されている所も少なくない。
反面、住民が合併を望んでいるにも拘らず、「自立」を謳って合併を拒絶したり、合併協議の破談や首長と議会の対立の末に「自立」を謳う市町村もまま見受けられる。
もちろん、住民が分割や分立を望んでいるにも拘らず、議会や首長が拒絶をする市町村もある。
■日本の市町村数推移
1888年(明治21年)末 71,314
1889年(明治22年)末 15,820
1953年(昭和28年)10月 9,868
1961年(昭和36年) 3,472
2006年(平成18年)4月 1,820
2008年(平成20年)4月 1,788
2009年(平成21年)4月 約1,300
出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
放送大学准教授 山岡 龍一
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